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起信論

大乗起信論

【概要】

大乗仏教には様々な論書があります。
代表的なものとしては『大智度論』『中論』『成唯識論』などがありますが、
『大乗起信論』という論書も古来、非常に重視されて来たものです。
この論書は『宝性論』『仏性論』などとともに如来蔵思想という流れに属するもので、
特に中国・日本の仏教界では絶大な影響を持っているものであります。
インド成立か、中国か、はたまた西域か…という「撰述問題」も明治以来の論題ですが、
結果がどうであれ、大乗仏教のひとつのメインラインを形成した論であることは間違いありません。

ウィキペディアをそのまま引用すると…

本書では、「大乗」(摩訶衍)について「衆生の心がそのまま大乗である」と述べ、
「一般平凡な衆生の心に仏性がある」という「如来蔵」思想を説き、
「大乗起信」とは、これへの信仰を起こさせるという意味である。
本書は大乗仏教に属する論書であるが、本書で言う「大乗」という語は、
一般に大乗仏教という場合の「大乗」とは必ずしも内容が同じではない。
本書は、漢訳では、
因縁分第一、立義分第二、解釈分第三、修行信心分第四、勧修利益分第五という5章構成である。
因縁分は「本書述作の動機」、立義分は「大乗という主題の中身と意義」を説く。
解釈分はその「詳細な解説」を展開し、修行信心分は「大乗への信仰とその修行」について述べ、
勧修利益分は、「修行の勧めと修行の效用」を説く。
本書は、いわゆる般若経などに説かれる自性清浄心と、
いわばその発展思想である「如来蔵説」を述べ、これを「本覚」と呼んでいる。
阿賴耶識に言及し、唯識説を展開するが、中国や日本の法相宗が主張する唯識説とはやや異なる。

…とまぁ、そんな感じです。
最後の「阿賴耶識に言及し…(中略)…唯識説とはやや異なる」ですが、
本論では「阿梨耶識」という表記で、私としては両者の違いをそこで示すものだと考えてます。
原語は同じはずなんですけれども。

思想内容は色々と特徴的な部分もあり、そこばかり注目されがちですが、
基本的に本論は修行信心分を中心とした「実践志向の論書」だと思います。
その実践論としては、基本的に六波羅蜜の構造をベースにして、布施以降の実践を提示し、
具体的なものとして十善戒・止・観・不退方便の四つを基本としています。
十善戒はそのままですが、特色はやはり、止・観・不退方便にあります。
とは言うものの、オーソドックスと言えば、オーソドックスなものです。

【実践について】

その実践ですが、まず六波羅蜜が基本です。
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の各波羅蜜ですが、『起信論』ではこれを「五門」とします。
つまり「禅定と智慧」をまとめて「止観」として、五門にまとめる。
この五門を完成することで、信成就して菩薩としての第一段階に達して不退転となるわけですが、
次の段階における修行もこの六波羅蜜を継続実践していくこととされていますので、
結局は大乗における修行とは、この六波羅蜜に尽きていくこととなります。
そのうち、最後の「止観」について、ここでは書きます。これが具体的な実践の中心です。

まず、「止」。
これは身を正して座り、心真如を念じて対象の相が現れないようにすることです。
数息観などの手法を一切、使わないというのが特徴になるかと思います。
これを真如三昧と名付けています。これだけです。
その功徳については十種が数えられますが、ここでは省略します。
次いで、「観」。
観には四種類のものがあります。
「法相観」「大悲観」「大願観」「精進観」。
この観は、日常すべての場面に置いていつも意識し、自分のものとしていくことが大切です。
この止と観の両方を、あらゆる場面で双修していくのが、『起信論』を奉ずる者の生活です。

実践にはもうひとつ、「不退方便」があります。
基本的には「止観」の修行が難しい、自信がない場合には退転するのではなく、
この方便の行を行え、といわれるものです。
これは「阿弥陀如来の念仏」です。
ただし『起信論』における念仏は、いわゆる「南無阿弥陀仏」の口称念仏ではなく、
明らかに観想念仏です。
阿弥陀如来の姿を想い、極楽浄土へ生まれることを願って習修した善根功徳を回向するべし。
また、報身・阿弥陀如来の根源である真如法身を観じつつ習修を続けていくことで、
浄土に往生した後に、不退転の菩薩の仲間になることができる、というものです。
これは私は、あくまでも「止観」の修行は、出来なくても、不十分でもやり続けることが前提で、
その完成はとても期せない者であっても、同時に阿弥陀如来を信仰していくべきである、と読みます。
つまりあくまでも「不退」の方便ですから、止観から退いて「念仏すればいい」というのではないと。

【まとめ】

以上のように、『起信論』は、思想的な独自性ももちろんですが、
とてもすっきりとまとまった実践論を持っており、参照すべきものが大であると思っています。
まとめますと、六波羅蜜が基本。そのうち「戒波羅蜜」は十善戒。
「禅・慧」はあわせて「止観」となり、これが具体的修行実践を示す。
止は真如三昧、観は四種類あり、いわゆる「座禅」としては「止」を修行し、
「観」は生活のあらゆる場面で意識して薫習し、実践していくものである。
同時に、不退方便として阿弥陀如来の念仏を行うこと。
この「念仏」の具体的方法は色々とあり得るとは思いますが、
たとえば阿弥陀如来の像・絵を現前に置き、浄土観想にもっともふさわしい阿弥陀経を読誦し、
あとは往生と現世での修行の守護を祈りつつ、往生呪、また阿弥陀大・小呪、六字名号とともに、
阿弥陀如来の御姿を目を閉じても映し出されるよう、念じていくのも良いかと思います。


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以下に思想的要点を示した部分と、最初と最後の偈を示します。
訓読文で読誦するためのものですが、参考にしてみてください。
なお、()は補足ですので、読誦の時はもちろん、読みません。


大乗起信論 読誦訓読文

 (帰敬頌)
尽十方の    (三宝)
最勝業なる遍知と    (仏宝・仏の意業)
色無礙自在と   (仏宝・仏の身業)
救世の大悲者と    (仏宝・仏の語業)
及び彼の身の体と相となる    (法宝・法身)
法性真如の海と    (法宝・体大)
無量の功徳蔵と    (法宝・相大)
如実修の行等とに   (僧宝)
帰命したてまつる
衆生をして、疑を除き、邪執を捨て
大乗の正信を起こして
仏種を断ぜざらしめんと欲するが為の故なり

 (立義分)
次に立義分を説かん。
摩訶衍には、総じて説けば、二種有り。云何が二となすや。
一には法、二には義なり。   (法と義)
言う所の法とは、衆生心を謂う。
是の心、則ち一切の世間法と出世間法とを摂すれば、
此の心に依りて、摩訶衍の義を顕示するなり。    (一心)
何を以ての故に。是の心の真如の相は、
即ち摩訶衍の体を示すが故なり。
是の心の生滅因縁の相は、
能く摩訶衍の自の体と相と用とを示すが故なり。   (二門)
言う所の義とは、則ち三種有り。 云何が三となす。
一には体大、一切法の真如を謂う。
平等にして増減せざるが故なり。
二には相大、如来蔵を謂う。
無量の性功徳を具足するが故なり。
三には用大、能く一切の世間と出世間との
善の因果を生ずるが故なり。   (三大)
一切の諸仏の本乗ぜし所なるが故なり。
一切の菩薩も皆此法に乗じて、如来地に到るが故なり。    (乗)

 (回向頌)
諸仏の甚深にして広大なる義を
我れは今、分に随って総持して説けり
此の功徳の法性の如きを廻らして
普ねく一切の衆生界を利せん

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