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読経

読経について   

供養・回向の場において読経は亡者のためです。

少なくとも私は、遺族の癒しのため、などという気持ちで回向の読経をしたことはありません。
癒しになるかならないかは結果論で、もちろん色々な場面で寺がそういう役割を果たせれば…とは思いますが、
しかし、読経に関しては、あくまでも亡くなった方のためです。
確かに人によっては「そうではない」という立場もありますが、その場合は親鸞聖人のように、
葬儀そのものをしないのがその真摯な立場だと思います。

「意味もわからずに~~」ということに関してですが、色々な考え方が可能です。

そもそも読経について言うならば、インドであれ中国であれ、基本的には「読んでわかる」ものでした。
しかし日本では漢文そのままを利用したため、
一般には読経してもわからない、ということになってしまっています。
しかし少なくとも、読んでいる坊さんはその経典を理解して読んでいます(まともな僧侶であれば)。
逐語的に読経と同時に…でなくとも、少なくとも内容は知った上で読んでいます。
もちろん一般の方も、「わかって読む」「わかって聴く」のがベストだというのも事実です。
本来は、教えの内容を記憶する為の行為が、読経ですから…
そしてその場合、いわゆる「和文」よりも「漢文」の方がリズムが良く簡潔ですから、
記憶の便には優れています。
また読経は、止観行の一環として行う場合もあります。
日日の読経、勤行などの時は、私の場合は基本的には止観行のひとつとして読経をしています。

ただ今回は、「葬儀・法事に於いて」云々ということに限定した場合での読経について…ということで、
一般的な檀家さんの立場からの、それに沿った回答をしたいと思います。

さて。

さて、仏教の究極・真如というものは本来、言語道断の世界ですから、言葉以前の世界の事です。
それを敢えて言葉にしたものが経典であり真言ですので、
そういう意味で「経典は言葉以前の究極ところを示すものだ」と思い、
意味がわからなくても「信仰で」捉える、という立場がひとつ、あると思います。
つまり薫習といいますが、たとえば「線香の香」は、その成分や製造過程を知らずとも衣に移ります。
読経も一緒だと考え、仏の音声を理性以前のところに薫じる気持ちで捉えるという事。

また、亡くなった方は現世的な分別理屈の世界(妄念の世界)を脱した仏の世界に結縁するのだから、
経典の文句の一々がわかる・わからないということではなく、
その本質的意味・言説を超えた真如法身の説法そのものをダイレクトに聞くことができるから、
生前に漢文がわかるわからないは関係ない…と信じる。そういう捉え方。

他にも色々な考え方があるかも知れません。
ただいずれにしても、私たちの分別・妄想心の判断とは別次元の考え方で、
それらは行われているのだ…という事です。
それを無理に「合理化」したところで、それは世間妄念の枠内での事に過ぎません。
ただまぁ、読経による読経者の功徳と、
またそれを聴く者の随喜の功徳、その回向という点はあると思います。それは前提です。

いずれにしても読経の声は「僧侶の声」ではなくて、
仏界からの「仏の声」であり(坊さんはスピーカーとして仏に口をお貸ししているだけ)、
それは意味分節を超えたところの本源的な「力」だと信じて手を合わせるのが、私はいいと思います。

以下は一般論ですが…。

自分の経験範囲の狭い了見で四の五の言う前に、
素直に感性で読経を「感じてみる」という姿勢も大切かなぁ、と。
同時にまた、「わからない」なら「学んでみる」という気持ちも大切なのではないかと思います。
今の時代、ちょっと勉強する気があれば、経典の解説書や現代語訳などいくらでもあるわけですから。

【追記】

因みに。

 私たちの分別・妄想心の判断とは別次元の考え方で、それらは行われているのだ

とは言っても、いわゆるカルト的な意味ではありません。
意味もわからず盲信してやれ、というのは仏教ですらないです。
分別妄想の心=生滅心の次元ではなく、言語不達の不二真如の根源において、という意味です。

仏教では、すべての迷い・苦は、「分別心・主客相対の心」から起こる、
つまり「言葉の世界・論理の世界」は仮には成立しているし必要だけれども、
究極的にはそれらはどこまで行っても「迷いの分際」ということです。
いくらテレビ画面に映るものが素晴らしくとも、ハイビジョンでいくらキレイになったとしても、
それらは電気信号でしかないし、幻のようなものでしかない、ということです。
言葉・論理も、どこまで精密にしても、どこまでやっても、それは「妄想」です。
そういう妄想次元のものも、「本物」を指し示す「縁」にはなりますから、大切なものです。
テレビがあるから、外国の事も学べます。でも、それ自体は幻です。
言葉とはそういうものですから、読経についても、その応用として、ご自身で考えてみてください。

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