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自己肯定

自己肯定と自我肯定

如来蔵思想が、無限定で無条件の自己(というよりも、自我)肯定に陥ると、悪い意味での「本覚思想」…
(私は天台本覚思想が悪いとは思いませんが、行き過ぎる危険性は常に持っていると思います。
その悪い意味においての、それ)に陥ってしまいます。
「(悪い意味での)本覚思想」などというと「そんなの知らないよ」と言われますが、
要は「あなたはあなたのままで良い」という、
あの微温的で「やさしい」巷の通俗的仏教が啓発本で垂れ流している「思想」のことです。

如来蔵思想というものは、
「変化する必要はない、あなたの(そして認識世界の)本質が仏陀・真如自体だ」という思想ですが、
それは「あなたはあなたのままで良い」ということとは、まったく違うことを言っているのです。
ここがわからないと、菩提心も修行実践の必要性も教学の存在意義も、すべてわからなくなります。

ポイントは、自己肯定と自我肯定の相違です。

絶対的な主客不二の極点を前提とした自己肯定(そこには既に自己否定の介在する余地すらない)と、
自他相対の巷に生きる「わたし=自我」肯定とは、次元がまったく違うのです。
もしそれがわからないのであれば、
「あなたはあなたのままで良い」という事と「無我=非我」はどういう関係にあると言えるでしょうか。
また、「自灯明」という時の「自」とは何なのでしょうか。
それは「魂」「霊的な意味における個的アートマン」と仏教はどういう関わりを持つのでしょうか。
自己肯定と自我肯定を混同する者は、
いつまでも「如来」を「何らかの神格」の変形として拝むだけの
そんな「信仰」にとどまらざるを得ないのではないでしょうか(人間崇拝も含めて!)。

自我肯定には菩提心も行も学も不要です。
それは、日常的分別心の嫡子です。
しかし自己肯定は正しく、仏道の眼目です。

肯定しうる自己など、私たちは誰も生まれてこのかた、想像すらしていなかったのですから。
これを「顕現」させるには、(一部の宗教的天才を除く凡夫人には)菩提心と行学が必須です。
そうしてはじめて、肯定するものも否定するものもない、
ただただ「ある」…「有無を超えた」「ある」という事態が成就されてくるのだと思われます。
その境地を私ももちろんまだ味わったことはありませんが、
その世界「認識」の方向性が正しいという「信」を持っています。
細かい教学など以前の、全体的直感と言いましょうか…。

いずれにせよ、このような「仏教」が本筋だと、私は考えています。
「あなたはあなたのままで良い」。然り。本質論としてはその通り。
しかし、現実にはそれでは迷いの分際にあり続けるのみで、
苦海に沈む分断された自我はいつまでも漂流して、繰り返し溺れ死に、
また苦海に生まれてくるだけなのです。

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