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自己

自己

自己実現とか自己表現とか自己啓発とかいう胡散臭い言葉がいまだに流行っている。
「自分探し」という更に更に胡散臭い言葉もある。

自己とは何か。

まずそれを考えて見なくてはいけない。自己とは、個性とは何か。

それは集積して来た経験、歴史性、周辺環境の総体でしかない。

それでは、「何が基盤となってそれを集積したのか、その基盤こそ自己ではないのか」と、
そう人は言うかもしれない。
しかしそれはどうだろうか。

例えば鳴門の渦潮は確かに「そこにある」。
様々な物理的現象の集積がそこに渦潮を存在させているのであるが、
では「その場所」に基体はあるか、ないか。
地球ひいては宇宙全体の流れ、
また時間性の中でそこに縁生のものとして現出した一個の事象でしかないのではないか。
そこは存在の淀みであり、現象点ではあっても、果たして不動の基体がそこにあるか。
私たち「自己」「人格」というのは、それとどう違うのか。物理的にも、精神的にも。
確かに私たちは別個に「存在している」。「鳴門の渦潮」は黒潮やオホーツク海流とは違う。

それはそれとして、「そこにある」。

そういう点で、私たちはひとりひとり違う者として「存在している」。
しかし、それらは基体であるのか。相互に交流して入り込みまた出ていく流れの一時の仮現として、
それはそこに立ち上がっているだけではないか。
その輪郭は、不安定であり、確固としたものはない。海だけではない、森羅万象すべて、そうではないか。
その「自己」の不安定さ、基体のなさというものに恐怖し、畏怖し、驚くこと、それは言語道断の世界だ。
その世界をどうやって「見つけるのか」。何を「実現」して、何を「表現」するのか。
それがそれとして自性をもって存在すると錯誤しているから、
それらを見つけ、表現したいと倒錯するのではないか。
存在の不安、自己が自己として確定し得ない不安の前に、ひとはまず言葉を失うものではないか。
そこで黙ってしまうのが、ものの順序ではないか。
そしてそれが、もっとも誠実な態度ではないか。19歳で詩を放棄したランボオのように。

それでも、人類の宿命としてある「言葉」「認識」の世界で、
その「わからない世界」を描写せざるを得ないという人だけが、
表現者・芸術家あるいは思想家たるのではないか。
そして、言語や論理で描写し切れないというそういう世界をどう生き、
どう死んでいくのかを悩まなくてはならない因果な(そう、因果な)性癖を持つものが、
宗教に足を踏み込むのではないか。
そんな因果な性癖のない、素直な者にかかってしまうと、
芸術は表面の華やかさや形態を欲望や感性の玩具として弄ぶにとどまり、
宗教は人生論や道徳に堕落する。
すべて、自己や世界につまづかなかった「健全な」オトナの失敗ではないだろうか。

まだあなたは、「自己実現」しますか。
「自己表現」しますか。
「自己啓発」しますか。

いったいあなたは、本当に「何を」実現して表現して啓発するのですか。
「自分探し」という、その「自分」とは何ですか。
どこかに用意されて転がっている「なにものか」ですか。
あなたという事象の結節点に現に、現に現象しているところの、
その「何かしら」以外に、どこに「自己」「あなた」がいるのですか。

外部にどこか転がっているであろう「答え」とやらが、
果たして「本当のあなた」なのか。

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