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無我と霊

無我と霊について   

たとえば「犬がいる」と言うと、「それは実体論だから嘘だ」と言いますか?
「犬は確かに目の前にいるけれど、自性を守る実体としてそれがあるわけじゃなく、
犬というものは縁によって仮にここに存在しているけれど、無常のものだ」と言うべきではないでしょうか?
まさか目の前の犬の存在自体を否定して、
「犬なんてものは存在しない、まったく無だ。いると思うのは妄想だ、嘘だ」と言うのでしょうか? 
ありもしない犬なんかに噛まれても、その人は病院にも行かないのでしょうか?
「魂がある」「霊がある」と言うと、どうして人はそれだけで一足飛びにそれを「実体論」と決めつけ、
「魂なんか妄想だ、ないのだ、それが仏教だ」と断言してしまうのでしょうか。

諸法無我ということは、諸法の存在を前提しているわけですよね?

諸法が現前しているけれど、それは実は無自性なんだと。
だから、無自性としての諸法は、実体は「ない」けれども現象・縁生としては「ある」わけです。
無我の「無」は単なる「ない」ではなくて、有無の二辺を離れた中道です。
それを「無」というなら断見、「有」というなら常見です。

魂というもの、霊というものについて、それは実証できないものですから語らず、
無記というのが釈尊の立場ですが、 単純な「無」であれば、釈尊は「無」と述べている筈です。
でも、そうはしていない。そこに重大な意味があります。
しかし無論、不可視のものですから、それを肯定もしない。
仏道の本筋と離れた、証明不能で無意味な論争が起こるだけだからです。

結局のところ、理論上、魂や霊は無自性の縁生のものとしての諸法として「あって」も、
それそのものは何らおかしくはありません。
むしろ、輪廻説を肯定する立場からは、
そういう「縁生の魂」「無常なる魂」が現象としては「ある」としないと、理屈が立たないと思います。

以下は、私がかつてブログに書いた文章ですが、似たような問題を扱っていますので、
参考までにここに転載します。

………………………………………………

高名な仏教学者である奈良康明師の文章を読んだのですが、ひっかかりました。
浄土宗出版社の新刊書です。

輪廻や魂が実際に「あるか・ないか」という事は別にして
(ここでそんな水掛け論をするつもりはありません)、
「無我」であればそれらは成立しない、という論が理屈としてどうして成り立つのか、
私にはわかりません。
「無我であれば不変の霊魂など認められない」という論旨のようですが、
それがそのまま「魂はない」ゆえに「輪廻はない」という結論に、どうしてなるのでしょうか。

私とて仏教においては「不変の実体がない」ことなど百も承知ですが
(不変の実体を是認すれば「常見論」となり、異端です)、
しかし現実に「この私」というものは「ある」わけです。
これは縁生の現象・一時的な「状態」として「私という対象化されうるもの」が一時的に成立している、
つまり「空」として「ある」わけで、それまで否定するのは「断見」「虚無論」であり、
「無我論」とは異質のものになるでしょう。
霊魂が実際にあるかどうか、その問題は形而上学的なものですから私も断定は敢えて避けますが、
しかし「論理的帰結としてそれらは絶対に成立しない」という考え方はおかしいのでは、と思っています。

すべて無常・無我である。
しかし現象としての身体や「私」は、ある。
そして、そのレベルでの霊魂があったとしても、別に問題はないでしょう。
無常の、かりそめの、縁生の無我なる霊魂。

少なくとも、
「不変の霊魂はない」から「縁生の無常なる霊魂もない」ゆえに「輪廻はない」という事は、
理屈として成立しないと思うのですが。
これが成立するのなら、私の身体も世界も、文字通り「なにもない・無」ということですよ。
そんな断見的な思想は、仏教ではないと思いますけれども…。

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