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涅槃

涅槃

涅槃とは一種の超越体験なのか…という質問がありました。

大乗においてはアラカンの覚りは小乗であり、理想とするところではありません。
ですので、アラカン的な灰身滅智の涅槃は求めません。
あくまでも成仏が目標になります。
ただ、ブッダは最終の目標であり、すべての者がブッダの自覚に到達しなくてはならないので、
そうでない以上、我々は菩薩として娑婆世界において働き続けます。

宮澤賢治の「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
弘法大師の「虚空尽 衆生尽 涅槃尽 我願尽」です。
涅槃そのものも尽きてしまって後、はじめて菩薩の誓願が尽きます。

ですから、「超越体験」というものの指示内容が不明で何とも言えませんが、
少なくとも本質は、菩薩行に集約されます。
ただ、菩薩にもふたつあり、凡夫の菩薩と聖者の菩薩があり、
華厳経の十地などにそのひとつの典型がありますが、いずれにしても、
大乗においては菩薩の居場所は、この娑婆世界です。

更に言うと、大乗においても特に如来蔵思想に立脚する流れの場合、
ブッダの観点からは、覚りも迷いも同一の地平です。
自覚の有無の問題であって、本質的には宇宙全体は最初から最後まで一法界で、
私たちも実際には三世にわたり、既にブッダです。

ただ、いくら銀行口座に大金があっても、その存在を知らなければないも同然ですし、
あることを知っていても引き出し方がわからなければ、絵に描いた餅です。
大乗の修行とは、お金の下ろし方を知る為のものであり、カネを貯めるのが修行ではありませんので、
ことさら「新しい真理を獲得する」「凡夫からブッダに変化する」というものではありません。
既に、本質的に必要なものはすべて持っています。
ですからキャッシュカードをしっかりと持ちながら、敢えてそれを下ろさずに、
娑婆世界で生きているのが、本当の意味での菩薩ということになります。

で、利他の対象がすべてなくなってしまった時(衆生尽)、世界ぜんたいが幸福になった時、
その時、菩薩はすべての貯金をおろしてブッダになります。
ただその時には宇宙ぜんたいすべてブッダ・法界ですから、
もはやブッダも涅槃という概念も必要ではありませんよね(涅槃尽)。
主客不二の一大法界「のみ」です(虚空尽)。これが究極の大般涅槃(我願尽)です。

あらゆる「超越体験」というものは、上記の誓願に則ったものでなくてはなりませんので、
自分ひとりの問題として涅槃を求めたならば、それは小乗と言わざるをえません。
もちろんある種の体験が菩薩行にとって必要ではありますので、
そのこと自体は否定できませんし、してはなりません。
しかし、それに耽溺する、惑うのであれば、体験はないほうが良いです。
仏語を信じて、コツコツと地味に六波羅蜜を意識して生活するに勝る道はないですから。

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