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法事

法事とは

これは宗派により、また僧侶によって説くところが違うため、もっとも混乱する部分ですね。

まず大原則として、「仏教では永遠に続く、<この体とは別の魂>というものは認めない」
ということがあります。これは「身心一如」たる仏教の基本からは当然のことです。
また、「すべては物質からできているため、死んだらすべておしまい」という考え方も否定します。
業(カルマ)の継続(輪廻)、という観点からです。

私はよく「海と波の譬え」を鬱陶しいくらい使いますが、ここでも使います。
結局、いかなる事象であれ、一なる全体の断面に過ぎないわけですから…。

さて、波は我々であり、諸々の事象です。海は一真如・絶対の一です。
波は主客相対的な存在であり、海は主客無分別の全一的存在です。
そして、「海が」「波としての」自己を明瞭に覚知したとき、その事態を「覚り」と言います。
「波が」「海としての」ではありません。ここは重要なポイントですが、ここでは措いて置きます。
結局、真如・事実として我々は無分別の存在ですし、主客不二の一なる「すべて」であり、
「あなたと私」「これとそれ」を分別するのは無明による妄想に過ぎません。
もちろん、「生と死」「生者と死者」も、
結局は同一の真如の恣意的な(かつ強固な妄想・慣習的認識による)分別なわけです。

  自ら諸法の本源を運んで三界を画策して、還って自らその中に没し、  
  自心熾然にして備に諸苦を受く――『大日経疏』

ここを超えること、この無明妄念の境涯を払拭することが畢竟仏教の眼目であると私は考えています。
修行とは結局このためですし、伝道もこれを
「自己の本質を知らずに荒れ狂う大海で右往左往する波…本来は自他不二ですから、
彼は自分自身でもあるのです…」が「海との本質的同一性」に気づいて欲しいが為です。
智慧とはこれを覚することですし、慈悲は自他不二という真実の世界において湧出するものです。

で、まず。

「死者を波」だとイメージしてください。
波は死んでも(海に戻っても)その「波としての力」までが消えるわけではなく、
次の波となって再び生まれる(輪廻)力を潜在しています。これを業(カルマ)と言います。
前の波と後の波は連続性がありますし、
力の大小によって前は後ろに影響を与えていますので、継続的な側面があります。
ここから「魂」という観念が出てきますが、
しかし前の波と後の波の物質的要素はまったく同じではありません。別物です。
継続しているのは「業」だけです。
そしてこれはもちろん無常のものであり、永続性のあるものではありませんね。
輪廻とは、こういうものです。
そして、波の底がスッポリと「抜け」て海との同一性を覚せば「無明の風」は止みますので、
波も消えて「一海」独在の世界になります。これを涅槃と言います。
つまり、波は無明の風によって起こる縁起性・無常のものであり、
如何なる意味でも確固とした実在とは言えません。
また海についても、もはや主客相対の世界を超えた「一」ですから、
分別をその作用とする言語・認識では捉える事ができませんので、
それも「存在する」「実在する」と言う事は実はできません。

法事とは、実はこのような「世界観」に立脚して行われるものです。
つまり死者も僧侶も列席者も、みなそれぞれの波として現象しているのですが、
実はそれは無明によるものであり、本来は「一」つまり「如来そのもの」であるわけです。
ただ、それに気づいていない、覚していないから我々は凡夫であり、輪廻に繋がれているだけなのです。
読経とは、海からの呼びかけです。
もちん法話も威儀もすべて、海からの呼びかけです。
僧侶はその使い…『法華経』流に言うなれば、「如来使」です。
「死者に読経しても聞こえないじゃないか」と考えるのは、死者と自分を分割して切り離すからです。

死者は私、私はあなた、あなたは如来、如来は死者。
「私が海の自覚に立っていれば」、「どの波にも、誰にでもなれるのです」。

法事とは、他の波、この場合は故人という波が本来は「海と同一である」ということを
「自己を通して知らしめる」という「伝道」「法施」そのものです。

もって法事の意義もわかっていただけたと思いますが、
「永続的な実在としての魂がないのに輪廻するとはどういうことか」についても
何となく、理解していただけたかと思います。

なお、「海と波が同一である」→「私は本当は仏だ」→「修行なんてしなくていい」…
という安易な考え方は出来ません。
過去にはそういう「思想」も流行したようですが、まったくナンセンスです。
仏教は「苦海を渡る」教えです。
いくら「本来海」でも、現実に無明の暴風による苦が厳然している以上、
彼は「単なる波」であり、決して「海ではありません」。
海と波の本質は同一ですが、しかし、海と波は現象としては同一ではないのです。
ここを踏みちがえると、修行軽視の似非仏教になります。

以上はすべて、「私の仏教」です。
宗派により、また立場により、色々な言説が世に出回っています。
ある程度は妥当なものもあれば、おかしいものもありますが、
いずれにしても私は「私の考え方が絶対だ」というつもりはまったく御座いません。
第一、真如・真理は原理的にも「言語化」できないものですから、
私の「言説」も他の誰かの「言説」も、すべて「仮設」であって「真実そのもの」ではあり得ません。

と。

ここまで書いて来て何ですが、実はこういう「形而上学的」なことは、どうでもいい話なのです。
大切なことは、「今、ここ」の「苦の現実」に気づき、それを脱することです。
それには理論なんかよりも、ひたすら実践です。
ただ、世の中のカルト宗教も似たようなことを言う場合が多々ありますから、
ひとまず言語による仮設的「理論」を立てて、皆さんの判断の便に供するだけのことです。

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