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戒と律

戒と律

戒と律と違うものだ、ということは最近は徐々に認知されてきて…ないですか、そうですか。
まぁ「戒律」というひとつの単語として「なんとなく七面倒なルールなんだろうな」という感じですかね。

簡単に言いますと、「戒」というのは「罰則のない自己一身の規範」で、
基本的には自分自身が成長して仏陀になるためのガイドライン、と言えるでしょうか。
「戒体」とか難しい話もありますが、まぁ今はいいでしょう。
一方で「律」は、対他・対社会など…主には僧団内における行動規範で、罰則があります。
いわゆる「法律」の概念に近いのは「律」のほうだと思います。
この「律」は僧侶だけのもので、一般信者には関係がありませんが、
日本仏教においてはこの律というものの考え方に色々な経緯がありました。
南都仏教や真言宗では伝統的な律を基本的には保持したのに対して、
天台・鎌倉新仏教はこれを顧みない方向になっていきます。
また、大乗仏教においての律とはどうあるべきか、居士法師つまり妻帯僧侶の場合のそれはどうか…など、
これについては考えるべきことがたくさんあるのですが、今回はそういう点には突っ込みません。
ひとこと言うと、「宗規」というものが代替的な立場にあるのかなぁ…と思わなくもありません。

まあ、それはいいとして。
ガラっと話を変えます。

お話のメインは、「戒」のほうです。
「戒」にも色々ありますが、ここでは「十善戒」について書きます。
まず、ウィキペディアから引用して項目を掲げますと…

 不殺生…故意に生き物を殺さない。
 不偸盗…与えられていないものを自分のものとしない。
 不邪淫…不倫をしない。
 不妄語…嘘をつかない。
 不綺語…中身の無い言葉を話さない。
 不悪口…乱暴な言葉を使わない。
 不両舌…他人を仲違いさせるようなことを言わない。
 不慳貪…異常な欲を持たない。
 不瞋恚…異常な怒りを持たない。
 不邪見…(善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない。

出典は華厳経ですが、大乗仏教における根本的な戒で、僧俗通戒です。
私は居士法師で出家ではありませんので、いわゆる比丘戒は捨戒しましたが(受戒はしました)、
この十善戒はすべての仏教徒が守るべきものです。
また、大乗の実践者には六波羅蜜・四無量心などを受持するのですが、
いずれにしても基本はこの十善戒です。

五戒というものもあり、これは

 不殺生
 不偸盗
 不邪淫
 不妄語
 不飲酒

酒を飲むな、というのが入っています。
ですから、十善に加えて、不飲酒を入れた十一を意識してもいいと思います。

それぞれの意味はまぁ、見ていただければ想像つくとは思いますし、
ネット検索していただければ、意味自体はすぐにわかるでしょう。

ただ、これらの項目は「字面」を守ればいい、ということではありません。
比丘戒…律というものは、文字通りルールのように守ることを重視しますが、
十善戒というものはそうではなく、それ自体を内面に根差したものと考えなくてはいけません。

たとえば不殺生。

これは「殺すな」ですが、「殺さなければいい」というだけではなくて、
「どうして殺す、という行為が起こるのか」という点が大切です。
殺すというのは、「目の前の他者を消したい、不都合があるから排除したい」という心から起こります。
殺人も、「この人にいつまでもここにいて欲しい」なら、基本的には起こりません。
蚊を殺すのも、目の前から「それ」を排除したい、ということです。
であれば、そのような「排除」「排斥」の心が「殺しの第一歩」ですから、
そのような心が起こることは、即ち「殺生」に足を踏み込んだことになります。
実際に殺す・殺さないという現象だけではなく、そこまで幅を広げて考えてください。
不偸盗以下も同様です。
実際には盗まなくても、自分の者ではないものを掠め取りたい、他者のものを羨むこと、
それが「盗み」です。
モノだけではなくて、時間や労力、気持ちもそうです。
いつも私たちは、他者の何かしらを求めて、欲しがって、苦しみます。

ですから、この十善戒は、恐らく大多数の人には守れないものばかりです。

ではどうして、それを受ける必要があるのか。
守れないとわかっているなら、そもそも受けなければいいのではないか。
そういう考えも一理あります。
しかし、十善戒は、できれば大乗仏教徒であれば全員が受けるべきものです。
なぜか。

この十善というものは、理想です。
すべて自然にこのように生きていけるのは、仏陀だけです。あるいは、菩薩・阿羅漢。
いわゆる四聖の境涯にある方は殊更に意識しなくても、このように生きられます。
しかし私たち凡夫にはなかなか難しいことです。
…と言って、「じゃあエエわ、いらん」となると、そこまで。
それでも理想としての十善戒を受け、多少なり意識して持ち暮らすことで、
現状の自分と、理想の姿との乖離と距離が明確化します。
どれだけ自分が理想から離れてしまった存在であるか、痛感します。
痛感した後に、それでも理想に向かって進んでいきたいなぁ…という思いを起こすところ、
そのところに「菩提心」、さとりを求める心が生まれます。
この菩提心が仏教のスタートです。
これかなければ、仏教がはじまりません。
仏教をはじめるためのものが、十善戒です。
マラソンにしても、ゴールがどこかわからなければ、スタートを切れない。
また、ゴールに向かって一歩を踏み出そうと思わなければ、マラソンは成立しない。
仏教が成立しなければ、経典や論書などただの「文書の束」で、意味はありません。
また読経や行法なんかやっても、ママゴトです。意味はない。
いわゆる発菩提心を重視する流れとは違う浄土教などでも、ではどうして極楽浄土に行きたいのか、
その心には菩提心があるからだと、私は思っています。
経路と方法論に違いはあれど、どの流れであっても、菩提心は根本でしょう。

ですからどうぞ、「守れないものは無意味」と思わず、
守れないというその地点にこそ実は意味がある、と。そう思ってください。
ここが、「戒」の「戒」たる所以です。
もちろん、「守れない」というのは、極力「守る努力をする」ことが前提です。
最初から「守れないので」というのでは、理想との格差は絶対に見えてきません。
真剣に十善戒を守り抜く努力をする。それでも守れない。大切なのはここのところです。

機会があれば是非、受戒されてください。
また正式の受戒をされる機会がなくとも、十善戒は自分で意識して、
仏壇や寺院の御本尊の前で「守ります」と申し上げるだけで十分です。
正式に受けて真剣に考えずうっちゃっている人も多いです。
それに比べて、自分で勝手に受けると誓って守る努力をしている人、
どちらがより優れているか、こんなものは一目瞭然ですから。

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