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密教浄土教

密教浄土教

密教浄土教における阿弥陀と極楽の定義について。
以下は覚鑁上人の『五輪九字秘密釈』『阿弥陀秘釈』などの理論です。

覚鑁の思想が整理されていてわかりやすいので紹介すると、
まず阿弥陀如来については四重釈あります。

  浅略釈は法蔵菩薩の成仏するもの。
  深秘釈は大日の一門別徳の弥陀。
  秘中秘釈は大日即弥陀。
  秘々中釈は衆生本具の心即弥陀。

これは阿弥陀如来に四種類あるというのではなくて、
実践の進展によって実現する阿弥陀如来の顕現の仕方と言うか、視点の移動というか、
自覚の深まりです。

極楽については、自心胸中の極楽が基本で、いわゆる指方立相ではありません。
もちろん浅略では西方浄土と説くものの、本来十方空。

また、四十八願は六道衆生それぞれが本来具足している八葉蓮華(胎蔵中台八葉院)の展開であると、
そのように配当していきます。8×6=48。

その思想の当否は立場によって捉え方は違いますが、
ひとくちに「浄土教」と言っても、多様なものがあるということです。
法然・親鸞流、あるいは善導流がすべてではない、ということです。

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覚鑁の考え方は基本的に妥当なものだと僕自身は考えています。

自力と他力というものを、基本的には重視していない浄土教…というか、
密教の立場ですから、三力の立場に立ちます。
この立場からの、法然親鸞流の浄土教への評価というか、違いは…。

あなた、海=他力と波=自力と、どっちをとりますか?
海を取るなら波は捨てなさいね、と。
自他力分離の議論は、そのくらい無茶苦茶だと思う。
海から考えるか、波から考えるか、というのが法門の別。
最終的には海波双入の自他不二しかないし、あえてどちらから入るか、なら、
自己を見詰める波=自力から入るのが王道。
その自力=諸々の波や潮の絡み合う法界の力が自他を繋ぎ、無分別な真如となる。

波を考慮しない海というのは「立てられた概念的真如」で、それを報身仏というのかな、と。
それはもちろん体としては「全体」だけど、相としてはある側面に過ぎない。
一門別徳の阿弥陀如来がそれ。極楽浄土は場としての阿弥陀如来
この海の体は常に不変だけど、相は様々な形で示され得る。だから阿弥陀如来じゃない、
不動明王でも観音菩薩でも釈尊でも、僕でも犬でも月でも玉葱でもいい。
原理的にはそうなんだけど、実践的に玉葱では法の体が隠れすぎてて役に立たないので、
密教では選仏を行います。
その選仏として、無量の寿命と光を示す阿弥陀如来は、
もっとも入りやすく正面の如来だと考えるのが、秘密浄土、密教浄土教です。

その特定の仏を門として、海波双入の無分別の真如法身に入る。
これを大日といい、密厳国土といい、沙婆即寂光土といい、究極的には言語道断。

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だから往生も二段階往生説。沙婆(波)→極楽(海)→密厳(海波不二)と言うのですが、
これは上記の故です。
しかしあくまで海と波を分けるのは実践上の要請なので、原理的には極楽即密厳ですから、
別体じゃないのは言うまでもなく、沙婆世界のほかに極楽があるわけでもない。
極楽はこの世界であり、この世界であるということは、
「この私が現に関わり、私そのものであるこの世界」にほかならず、
つまり心即弥陀即大日即極楽即密厳。自心胸中の極楽。
大日即弥陀であり、衆生本具の心即弥陀です。波=海=海波不二ですから。

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ま、話はもっと単純で、念誦は「波」として「海」である阿弥陀如来と対面し、
入我我入して即一となるという観想をする、に尽きます。
その即一した状態を我即弥陀即極楽、総じては大日即真如即密厳海会であって、
三種成仏の第二段階であると。
加えて持戒菩薩行を地道に意識して、いつか日常に自利利他円満したとき、顕得成仏する、と。
それだけです。そんなに難しい理屈はないです。はい。
阿弥陀如来じゃなくても、顕得成仏へのルートはほかにもありますから、選仏の上下はないですし、
他宗派の方法でも一向に構いません。自由です。

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