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僧侶の結婚

僧侶の結婚

お坊さんは結婚してもいいのでしょうか?

さて。

「出家」と「在家」という言葉を聞いたことがあると思います。

出家とは、文字通り「家を出た」ということですので、家族を持たず・俗世に留まらずに、
ひたすら仏道修行だけに専念する僧侶のことを言います。
一方の在家とは、普通に結婚し、世俗の仕事を持ち、普通一般の生活を送ることを言います
(正確には、そのような生活をする「仏教徒」のことです)。

一般的に前者を「お坊さん」、後者を「信者さん」と言うようですが、
現在の日本の僧侶の多くは妻帯している「在家」であることは事実です。
問題はこれをどう考えるのか、ということになりますね。

結論から言いますと、日本の僧侶は結婚してもいい、と私は断言します。
もっと正しく言いますと、大乗仏教の僧侶は結婚してもいい、ということです。

日本の仏教の多くは大乗仏教ですが、もともと大乗仏教とは、
出家した僧侶(出家比丘)だけが解脱・覚りを得られ、
在家の一般信徒はそれが不可能である、という主張(俗にこれを小乗仏教と言います)に対し、
「それは違う、在家であれ出家であれ、究極的な覚りは可能だ」という主張をした宗教運動でした。
大乗仏教成立の当初はこの運動の担い手には在家の仏教徒も深くかかわり、
出家比丘とともに、在家の専門家も中心となって大乗仏教を伝道していたようですが、
この在家の者たちが「法師」と呼ばれる存在です。

この大乗仏教運動には、在家とともにもちん出家比丘も当初より関係していたのですが、
それでも基本的なテーゼは「僧俗不二」であり、宗教的な覚りに関して、
出家と在家の本質的な区別はない、というのがその主張の核心です。
そして、出家・在家を問わすに、大乗仏教の実践をする者たちを総称して「菩薩」と呼びました。
このあたりの事情を反映した経典に、例えば『維摩経』『勝鬘経』などがあります。

この立場からは、僧侶の結婚・法師の結婚ということは当然のこととして、問題にもなり得ません。
原理的には、大乗では結婚しているか否か、ということで覚りの可否を判断できませんし、
在俗の生活の中でも大乗菩薩道の実践は完全に可能だからです。

ここで注意すべきなのは、「在家でもいいし、また出家でもいい」ということです。
大乗仏教運動の当初より出家比丘が関与していたことは述べましたが、
この運動では出家でありたい者はその道を歩くことができます。どちらでもいいのです。
これは個人の生活態度の選択の範囲であり、仏道実践の方法はひとつに限定されていませんから。

しかし時代の推移とともに、やはり「出家比丘」の力が大乗仏教においても優勢になって来たようで、
いつしか大乗仏教においても「出家・在家」の別が立てられるようになってしまいました。
しかし上述したように、大乗仏教の理念から言うと、その区別を立てること自体が誤りです。
まして「出家は上、在家は下」「覚りは出家のもの、在家は布施して功徳を積むだけ」
「在家は祈祷を受ければいい」という風潮や思想が出てきたとすれば、
それは少なくとも本来の大乗仏教の理念とは違うでしょう。
確かに明治時代以来のなし崩し的な「僧侶妻帯」の過程は問題がありましたけれど、
しかし怪我の功名、今こそ本来の「菩薩道」「大乗仏教」の本義を
ラディカルに表明・実践する必要があるのではないでしょうか。

結局、現実に私たち大乗僧侶は、「在俗の法師」です。親鸞聖人の言葉を借りるならば、
「非僧非俗」です(単なる「俗」の僧侶もいるかも知れませんが…)。
そして、これが大乗法師・大乗菩薩の正しい在り方です。
俗にあり、俗に生きながら、俗に埋没しないで仏道を歩き、真如を覚する。
そして専門家・先達として広く仏法を説き・深く学び・真摯に実践していくのが、
私たち大乗仏教僧侶の使命です。
この自覚こそが、「大乗僧侶」としての矜持だと思います。

たとえば私たち仏教徒は僧侶であれ一般信徒であれ、三帰依・十善戒・六波羅蜜等を実践すべきですが、
とりわけ僧侶は全仏教徒の規範として、これらをより厳格に守る努力を怠ってはならないでしょう。
また、専門家としての学びと実践に励むべきです。
そしてこれらは、結婚しているかどうかとは関係ありません。

「普通の生活者」であっても完璧に、最後まで実践できる仏教。それが大乗仏教です。


■追記

「え、でもお釈迦様は出家主義だったじゃん」という声が聞こえてきましたので、もう一押し。

まず、大乗仏教の立場からは、出家でも構いません。
出家のほうが修行が容易ですから、それを勧める立場にも理はあります。
釈尊が出家主義の立場に立たれていたのは、
まさに修行に専心できるから、という点に尽きるのだと思います。
その理屈の成り立つことを認めつつ、しかし大乗仏教では、
「出家でなくてはならない」という立場を取っていませんので、出家至上・絶対主義は拒否します。
「法を覚する」という目標に関して、出家でなくてはならない、という理由はありませんので。
また、大乗の理想である「菩薩の生き方」「六波羅蜜」とは、
まさに俗世においてこそ実践・修行できる性質のものだからです。

釈尊の教説は偉大で、すべて真如・真理に則った間違いのないものです。
その真如を覚する方途にはしかし、様々な可能性があります。
私たちはその実践に関し、釈尊以来の数多の仏陀・覚者…偉大な大乗菩薩たちの仏道の歩き方に倣う、
という立場に立っています。
そしてそれは、釈尊の示された「出家道」を否定するのではなく、
一般の普通の生活の内に昇華し得るのだ、という確信に基づくものでもあるのです。

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